応募作品一般公開

私は今年3月に乳がんと告知されました。医師から乳がんのタイプや治療方法など丁寧な説明があり、がん化学療法看護認定看護師さんと心境などを話し、不安な時はいつでも相談に乗りますと言ってくれました。私には乳がんの治療をした友達がいた事もありショックは無く、医師や看護師さんの言葉に『大丈夫だ!頑張れる』と安心しました。抗がん剤治療では、看護師さんや薬剤師さんが副作用の症状をじっくり聞いて相談に乗ってくれました。病気と向き合い、辛い治療を乗り越えることができました。その後、放射線治療に進み、1週間お疲れ様また来週頑張りましょうと優しく声を掛けてくれる診療放射線技師さん。たくさんの方に支えられ治療していると感じます。本当に感謝します。皆さんのお陰で、前向きな気持ちを維持できたと思います。心にそっと寄り添ってくれる皆さんに「ありがとう」を伝えたいです。

愛知県 一般(高校生以上)の部

物心付いた頃から、母親はいつも働いていました。父が亡くなってから一人で私たち兄妹を育ててくれ、昼も夜も働き、テレビを観ながらでも野菜の下ごしらえや、繕い物、編み物など、いつも何かしら手を動かしていました。食事の支度や、お弁当を作るのも大変だと気付いたのは自分も親になってからでした。
花が好きで、庭仕事に精を出している姿をずっと見てきましたが、最近は年も取り思うように身体が動かなくはなってはきましたが、少しでも私たち子供や孫が喜ぶようにと畑で野菜を作ったりもしています。
私も母を見習いたい気持ちもありますが、なかなか思うように身体が動きません。それでも少しでも母の手助けができるように、ちょこちょこ顔を出し、細かな作業等手伝っています。自分も年を取るにつれ、大変な事も出てきて、今さらながら母親を尊敬するようになりました。
長い間、私たちの為にありがとう。
できない事があったら手伝うから、長生きしてね。

愛知県 一般(高校生以上)の部

重度の障がい者の介護施設で、非常勤で働いています。重度の知的障害や、内臓の障がいのために自身で食事や、排泄ができない人がいます。障がいを持って生まれてきても、人には生きる権利があり、親には育てる義務があります。しかし、親の愛情がどれだけ豊でも、それだけでは育てられません。組織的な介護がなければ、生を全うすることはできません。そこで働く正社員は、決して周りに愚痴を言うことはなく、障がい者にわからなくても話しかけ、来る日も来る日も、ひたすら、食事や排せつの世話をしています。その社員にとっては、障がい者からの無意識の笑顔、親からの感謝の気持ちを、何よりも心の支えにしています。地球から戦争がなくなることはないという識者もいます。従って莫大な国防費が必要なことも理解できます。でもその予算が、医学の発展や介護のため使えたら、幸せに暮らせる人がどれだけ増えるかといことについても、思いを馳せてほしいです。

三重県 一般(高校生以上)の部

今年80歳を迎える父へ
あなたが46歳のとき、私は誕生しました。兄姉と10歳以上年が離れて生まれた私は、あなたから大層可愛がられたことを覚えています。でも、私はあなたが嫌いでした。造園業を営み、毎日汗臭くて黒く汚い手で帰宅しては頭を撫でられるのが嫌だったし、今日学校どうだった?と変わりない日常を聞かれることもうんざりでした。手に職をつけるべきだと言われるがまま看護師の資格をとり、親のレールに敷かれた人生を歩んでいるようで、つまらなく思うこともありました。
私は現在、結婚して2人の子がいます。親になった今、私はあなたに感謝しています。保健師という天職につけたことも、あなたの薦めがあったからこそ。選択肢を与えてくれ、それを自分で選択していたことに今なら気が付けます。寝る前に子どもに、今日はどんな日だった?と尋ねるのも日課です。あなたから貰った優しさを今度は私が子どもにあげたいです。いつもありがとう

愛知県 一般(高校生以上)の部

宮崎のおばあちゃんへ
いつからかな。私の事を忘れてしまったのは。おばあちゃんに最後に会ったのは小学校の低学年の頃だったかな。家に来て私の好きなもの沢山持ってきてくれて、私の喜ぶ顔が見たかったからなんて言ってたよね。家から遠距離だったから中々会いに行けなくて、でもたくさん電話をして私が看護師になりたいって夢いつも応援してくれてたよね。でも次に会った時はおばあちゃんが倒れたあとだったね。うまく話すことも認識することも出来ないほどで…。今となってはもっとたくさん話せばよかった、もっとたくさん会いに行けばよかったって今更だけど後悔ばかりが残ってる。でも私あの日のこと忘れないよ。施設で私の顔を見て何かを思い出したような顔をして少し笑ってくれたこと。心の底から涙が出るほど嬉しかった。勘違いでも良い。思い出してくれたのかな。おばあちゃんと約束した夢必ず叶えるからね。それが私にできる精一杯の『ありがとう』。

愛知県 一般(高校生以上)の部

念願の小学校教員になり、あっという間に12年目になった。大変な仕事だが、子どもたちのかわいさや、仕事に対する誇りは、毎年増えていると感じる。

そんな私が、教師を辞めようと思ったことが1度だけあった。まだ教員2年目の春。理想と実力不足の間でもがき苦しみ、3階の教室へ向かう足が踊り場で止まってしまう程だった。

しかし、その年は運命の年となる。私が『師匠』と呼ぶ教師に出会ったのだ。師匠は『子どもと自分が元気で笑顔でいるために』と、楽しい授業を続けている人だ。2年間師匠の側で学び、師匠の元を離れた教師4年目から、私も『楽しい授業』をし続けることができていると思う。

師匠は今、小学校を退職し、子ども園で楽しい授業を続けている。いくつになっても、目の前の子どもと楽しむ姿。憧れだ。子どもと楽しく過ごすことを教えてくれた師匠のおかげで、私は毎日とても幸せで楽しい。師匠、ありがとう。これからも楽しく働き続けます。

三重県 一般(高校生以上)の部

子どもが生まれる前は自分のペースで動けていたし、働くことに特に支障は感じていなかった。
いざ育休復帰してみると、保育園へ連れて行こうとしてもぐずったりで毎朝がてんやわんやになった。
また子どもの発熱によって保育園から連絡が来て、仕事途中で早退することも…思うように動けないことが多い事を思い知らされた。
そんな時でも職場の上司や同僚が仕事のカバーをしてくれたり、保育士さんも優しく対応してくれた。
色々な人の支えがあって自分も働くことができるんだと、子どもを通じて気づくことができた。家庭と仕事の両立に悩んだりもするけど、働くことができる時間を以前よりも貴重に思えるようになった。

愛知県 一般(高校生以上)の部

私は発表や質問をするのが苦手だ。
 私が中学二年生の頃、授業で分からないところがあった。しかし、先生に質問しに行くのは勇気がいるし、面倒だと思われたら嫌だな、と分からないところを聞けずにいた。
 そんなある日、学校で質問会があった。なかなか勇気が出ない私は、今日も聞けないままだろう、と質問会に行くことを諦めていた。だがその日の帰りの会、先生が私の心を見透かしたようにこう言った。
「分からないところはそのままにせず、是非聞きに来てください。先生というものは質問しに来てくれると嬉しくなるものです。」
その時、私は生徒が質問しに来ることに対して、先生はそんな風に思っているんだと知った。その日、私は、その言葉のおかげで質問会で分からないところを聞くことができた。
 このように、質問する勇気が出ない私は変えてくれた先生には、今でも感謝しかない。ありがとう、そう私は先生に伝えたい。

三重県 中学生の部

両親が共働きである私は、小学校低学年だった頃、ひとりで留守番する日々が続いていた。親は決して遅い時間に帰ってくるという訳ではなかったけど、まだ幼かった私は留守番の時間がすごく長くて、さみしかった。そんな中、私は近所の学童に行くことになった。入った当初は友達ができるかなとか不安な気持ちでいっぱいだった。でも、学童の先生は楽しいイベントやゲームをたくさん考えてくれたり、たくさん声をかけてくれたりしてくれて、私の不安な気持ちはいつの間にかなくなっていた。また、家に帰ると私はいつも学童であった出来事を延々と話していたらしい。多分そのくらい心から楽しんでいたのだと思う。その後、私は習い事や委員会活動が忙しくなり、学童を卒業した。でも、学童で過ごした日々、暖かく接してくれた先生を忘れることはきっとない。「先生、私にたくさんの居場所、ワクワクをくれてありがとう」

愛知県 中学生の部

父へ
私が社会人になって2年目のことです。公務員だった父は、定年退職を3月に控え、病に倒れました。病院に行ったことが無い父でしたが自分の身体の具合の悪さに耐えきれなかったのかもしれません。
そのまま、紹介状をもらって大学病院に入院する事となってしまいました。
父本人は最後まで自分の病名を知らされてなかったと思います。
ある夜に母から父の余命を聞かされました。
それからは、毎週末に帰省し病院に行きました。
病院で手伝いはしましたが、私が看病できる事はなく病院で過ごしました。
病室で父といろんな話をしました。話したい事すべては、話しきれなかった。
今、私が父の年齢を迎えてその時の父の思いが少しわかってきた気がします。
私が社会人になる迄、育ててくれたことを今更ながらありがとうと伝えたい。
今はもう遅いけど。

愛知県 一般(高校生以上)の部